「同行(どうぎょう)」
浄土真宗では頻繁に使う言葉です。立場の違い関係無く「同じく仏法を聞かせていただくもの」すべてを「お同行」と呼んでいます。お参りに来てくださる方も、お寺のお坊さんも皆お同行になるわけです。
日本を発ってから1年の月日が流れました。当初、私は「帰る頃にゃスペイン語でお説教の1つもできるようになってるだろう。」と簡単に考えていましたが…まったくもって甘い考えでした。結局、現在にいたっても私のスペイン語は生活するのにやっとの状態で、難しい内容に踏み込むとなにか言われるたびに、会話を止めて分からない単語を聞き返さなくてはならなかったりします。ましてや「スペイン語でお説教」をするとなると多くの専門用語が必要になります。そこに手を伸ばすには私はあまりにも未熟です。
ブエノスアイレスのお寺でいつもお話しをしてくださる先生は日系人です。日系人のご子息、子孫の多くにありがちなことですが、先生も日本語を日常的に必要とする環境で育たれなかったので、日本語を流暢に話すことがなかなか難しいようです。その先生の半ば片言の日本語でなされるお説教は、正直申し上げてあまり聞き易いものではありません。もちろん先生はスペイン語、あるいは英語でお説教することができます。そちらのほうがその言葉を母国語とする人たちに対しては遥かに聞き易いのです。先生にとっても。けれども、先生はいつも一生懸命に日本語でお話をされます。そこには、いつもお寺にお参りしてくださるご年配の移民一世の方々への配慮があるわけです。
定例の集会が終わって年配のお同行たちが立ち去られた後、若者向け(日本語が分からない人たちのため)に先生はあらためて仏教講座を行います。そのときの先生は先ほどまでの日本語とは打って変わって、実に伸び伸びと話されているように見受けられます。だからといって話の質が全然違う、ということも無いはずです。日本語、スペイン語、どちらのお話の中にも先生の「仏法に出あったことへの深い感謝」が滲み出している。もちろん「スペイン語版」のほうは私にはよく分からないんですけどね(笑
1つ私にも分かることは、「先生の日本語は少しずつではあるが日々上達している。それにつけては、間違い無く日本語の修練を欠かさず続けておられる」ということです。責任ある立場にいる以上、「義務」のような感覚で日夜全うされているのかも知れませんが、とにかく頭が下がって仕方が無いです。曲がりなりにも語学をかじってみた後だからこそ尚更感じているのかも知れません。ただそういう努力を続けることが私にもできるんだろうか、ということに言いようの無い不安は感じます。
ときどきこう思います。
「仏法は好きだ。けれどお坊さんでい続ける自信が無い。いっそのことお坊さんなんてやめてしまって、お寺にお参りしてお説教を聞くだけの存在になりたい。」
できたらどれだけか楽なことだろう、と思うこともあります。けれど、そこには「楽」と呼べるものは無いんでしょうね。それ以前に私のような人間は「行っても行かなくてもいい」ような状態になると、お寺なんかにはめんど臭くて行かなくなってしまいそうです。お寺にお参りするのは大変なことです。それが分かったのは、恥ずかしい話、最近のことです。
この境遇にあればこそ今の人生がひらけた。この境遇にあればこそ仏法と出あった。うまくいった過去も、うまくいかなかった過去も、選択肢のあった過去も、選択のしようが無かった過去も。すべてが紡ぎ合わされて今の現在に導いてくれたとするならば、私には感謝以外に持ち合わせる感情がありません。
もうここに居られる時間も多くはありません。名残惜しいことですが、帰り支度です。