本当は29歳(去年)のうちに出発するつもりでいた。けれど1年の休みはそれほど簡単にとれるものではなく、懐具合もかなり不安な状態だったので、結局1年遅れて30歳の出発となってしまった。
なぜ去年出たかったかというと、29歳は真宗僧侶にとって「もの思う年齢」だからである。…ワシだけかな。
お釈迦さまは29歳の時、王位継承者としての地位と全ての財産、そして家族を捨てて求道の旅に出られたという。親鸞聖人も29歳の時に、9歳から20年間ご修業なさった比叡山を後にされている。
年齢が同じだったというのはたまたまで、新しい環境を求められた理由も異なるはずであるが、このお2人にあやかろうと私も心に決めていた。
よーしオレも何かを見付けるなら29歳だぜ。
無理だった。
そして知らぬ間に30歳になっていた。…ショック。
けれど出発を1年遅らせて良かったとも思っている。お金も貯まったし、いろいろなことを考えれたし。そして年齢的に新たな大台に乗ったのは、これはこれで特別な値打ちがある。やっぱり29よりも30の方が一般的には節目でしょ?もの思うにはよい年齢である。
多分10代から20代になる時にもこんな節目があったんだろうけど、当時私は今よりも更にとても痛い人間だったので、しみじみと考えるようなことはなかった。
今の歳になると、自分を取り巻く環境に変化が起こってきたりして、いやがおうにも考えさせられたりする。
例えば社会人としてバリバリと働いている人なら、年下の部下などができて、共に働いてると自分の年齢をふと思ったりするのではないだろうか。またある人は結婚し子供が生まれて、新しいいのちに触れるうちに自分自身の年齢を考えたりすることもあるだろう。
20歳くらいの頃、早々と結婚した友人達がいた。
彼らは早々に子宝に恵まれ、数年後にはこんなことを口にするようになっていた。
「オレにとって子供が1番の自慢だ。」
…こんなこと言うようになっちゃあ男としては終わりだなあ。
こう思った。今でもその意見は変わりない。
けれどこんな考えを維持していくと、いずれ少数民族になる、ということを最近は知らされるのである。比率としてはまだまだ主流派でいられるけれど、いつか比率が逆転し、いずれは皆から責められ諭され嘆かれ憐れまれ…気が付けば絶滅種・保護種となって国立公園で生活することになりかねない。ジジイとなっても野生のままで居続けるのだろうか。
不安だけどまあ、それもまたよし、だな。
29だろうが30だろうが、
「1年間旅行行ってきます、はい。」
なんて言うと珍獣扱いされてしまうのは間違いない。年相応のことしてないんだろうなあ…ベクトルが変なんだろうなあ…としんみりすることもあるが、
いやいやこの節目に遭って私はようやく自分のリズムで踏み出せているんだから、間違いではないんである。
と自分に言い聞かせている。節目に遭ってなにを考えようが私の勝手だ。
生きていれば年齢的な節目は必ず訪れる。それ以外にも色々節目はある。その時に変わる人もいれば変わらない人もいる。それにつけて他人はもとより本人でさえも、善し悪しの判断をするなど出来ないことなのだろう。
そんなわけで詰まる所、私にとっては「日々是節目」なのだった。
29歳当時。30になった今も相変わらずですね(笑